font-weight: bold; 僕は日本のトッププレーヤーじゃないんですよ。ワールドカップには出ましたけど。だから今、こうやっていろいろサッカーのお仕事をさせていただいているのは本当にありがたいと思っています。現役を終わってメディアのお仕事をさせていただいて、たくさんのミステイクもありましたが、でもいい経験をさせていただいています。周りの人に恵まれました。ラッキーです。 実はプロになったばかりの頃は、メディアの人と半 … position: relative; .ig-b- img { visibility: hidden; } }, Instagramもやってます!.ig-b- { display: inline-block; } !』(日本テレビ系)で観た高田純次のファンである。また、『アニー』を観てミュージカルにも傾倒し[8]、学校の文化祭で自ら脚本・主演で『アニー』を上演したことがあった[9]。, 高校卒業後はミュージカル女優を目指すも、ダンスの学校に通っていたこともあった[10]。友人が主宰する劇団の公演に出演することがあり稽古の時にセリフの掛け合いで、面白さを狙って自分なりにアレンジして演じたところ「台本どおりにやれ」と怒られる。この時に「集団でやるのは私には向いてない。自分は笑いを求めているし、笑いを取るのが一番嬉しい。」と感じてお笑いを始めるきっかけになったという[7]。, その後、最初はコンビを組む目的で東京・渋谷の『シアターD』で観たライブをきっかけに親しくなったオキシジェンに相談しつつ、雑誌で募集をかけたり、公園のストリートライブなど様々な場所で相方を探したが結局見つからなかった。一人でやって行くことを決めワタナベエンターテインメント開催のライブ『STEP! 来歴 選手時代. ヒラノ タカシ : ラテン文字 ... 平野 孝(ひらの たかし、1974年 7月15日 - )は、静岡県 清水市(現:静岡市 清水区)出身の元サッカー選手。元日本代表。現役時のポジションは、mf。サッカー番組の司会者・解説者. STEP! 平野 孝(ひらの たかし、1974年7月15日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身の元サッカー選手。元日本代表。現役時のポジションはMF、FW。サッカー番組の司会者・解説者。, 清水商業高校から1993年に名古屋グランパスエイトに入団し、1年目から出場機会を得る。アーセン・ベンゲル監督時代の名古屋では攻撃的な左サイドハーフとしてレギュラーに定着。左足からのストイコビッチへの正確なパスや、切り込んでの強烈なシュートで活躍した。, 1997年のオフにはプロ野球、Jリーグを騒がせた脱税事件に関与していたことが判明。その後の契約更改ではクラブ側の曖昧な選手評価基準に疑問を呈し、前年の年俸6000万円から1000万円にすることを自ら申し出てで契約した。, 2000年シーズン途中、チームの主力メンバーの望月重良、大岩剛とともに「チームの秩序を乱した」として解雇され、7月に京都パープルサンガに移籍[2]。2001シーズンは京都からジュビロ磐田に1年間の期限付き移籍[3]、2002年にヴィッセル神戸に完全移籍[4]、2003年に東京ヴェルディ1969に完全移籍[5]、2006年に横浜F・マリノスに完全移籍[6]。神戸、東京Vではユーティリティープレイヤーとして成長し、ボランチや左サイドバックとしてもプレイした。, 2007年、MLS・ニューイングランド・レボリューションに練習生として山田卓也とともに参加[7]。, 2007年5月21日から大宮の練習に参加。7月31日に大宮加入が発表された[8]。8月29日の対柏レイソル戦で史上9人目となるJリーグ通算350試合出場を達成した。, 2007シーズンをもって大宮との契約が満了し[9]、3月にMLSの実質的な下部リーグになっているUSLのバンクーバー・ホワイトキャップス (en)へ入団した。レギュラーシーズン終了後、同リーグの年間ベストイレブンに選出される活躍を見せ、[10]チームのUSL1部リーグ優勝に貢献した。, 2009年もバンクーバーの主力選手として活躍し、チーム内の最優秀DF賞を獲得し、2010年への契約も更新した[11]。2010年、2011年のメジャーリーグサッカーへ昇格を決めたバンクーバー・ホワイトキャップスより、2011年は契約を更新しないことを伝えられた。ただここまでのクラブへの功績は大きく、彼の退団を惜しむ声も多かった[12]。, 1997年6月8日に行われたキリンカップのクロアチア戦で日本代表として国際Aマッチに初出場。1998年にはワールドカップフランス大会で2試合に出場した[1]。日本代表での最後の国際Aマッチ出場は2000年2月20日に行われたアジアカップ予選のマカオ戦だった。, 2011年より中日スポーツと契約し、解説・評論活動を行っているほか、2011年5月にはNHK BS1のイングランド・プレミアリーグ中継でゲスト解説者として出演。2013年3月よりJリーグマッチデーハイライト(スカパー!)のMCとなる。, 2020年9月、監督に就任した三浦淳寛の後任として、ヴィッセル神戸のスポーツダイレクターに就任した[15]。, 名古屋時代、地元企業である寿がきや食品のインスタントラーメン、「寿がきやカップ本店の味」のCMに着流し姿で出演したことがある(なお、同CMには当時のチームメイト中西哲生も友情出演している)。, 極度の高所恐怖症であり、2016年12月の同番組内で順位予想を外した結果バンジージャンプをすることになったが、結局飛べず番組アシスタントの中川絵美里(奇しくも平野と同じ静岡県清水市出身)に飛ばせた。, https://web.archive.org/web/20130921055422/http://www.japannationalfootballteam.com/players_ha/takashi_hirano.html, http://web.archive.org/web/20021014224137/http://www.nagoya-grampus-eight.co.jp:80/news/2000/jul/news7_9.html, http://web.archive.org/web/20021101095248/http://www.kyoto-purple-sanga.co.jp:80/news/2001/0201hirano.htm, http://web.archive.org/web/20030226152449/http://www.kyoto-purple-sanga.co.jp:80/news/2001/1227hirano.htm, http://web.archive.org/web/20050205200306/http://vissel-kobe.co.jp:80/whatsnew/wn2003_1_2.html, https://www.jleague.jp/jsgoal_archive/official/detail.php?press_code=00028982, MLS marketing executive says league interested in Japanese players, https://www.jleague.jp/jsgoal_archive/official/detail.php?press_code=00052136, https://www.jleague.jp/jsgoal_archive/official/detail.php?press_code=00058055, Takashi Hirano not returning to Vancouver Whitecaps, “平野孝氏 アカデミー部部長兼スカウト部部長、林健太郎氏 トップチーム アシスタントコーチ就任のお知らせ”, https://www.vissel-kobe.co.jp/news/article/14589.html, https://www.vissel-kobe.co.jp/news/article/17862.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=平野孝&oldid=80334355. .ig-b-48 { width: 48px; height: 48px; background: url(//badges.instagram.com/static/images/ig-badge-sprite-48.png) no-repeat 0 0; } @media only screen and (-webkit-min-device-pixel-ratio: 2), only screen and (min--moz-device-pixel-ratio: 2), only screen and (-o-min-device-pixel-ratio: 2 / 1), only screen and (min-device-pixel-ratio: 2), only screen and (min-resolution: 192dpi), only screen and (min-resolution: 2dppx) { 平野 ノラ(ひらの ノラ、1978年10月20日 - )は、日本の女性お笑いタレント。本名、平野 千秋(ひらの ちあき)[1]。ワタナベエンターテインメント所属。, 不動産会社に勤めていた父はかつて仕事と遊びを思い切りやって土地を転がすバブリーな生活をしており、これは後の平野の芸風と決して無関係ではない[3]。, 小学3年生の時に、ママさんバレーをしていた母親の影響で、バレーボールを始め、東京都葛飾区のチーム『東金町ビーバーズ』に選手として所属。以後も選手を続け、中学校もバレーボールの強豪校・葛飾区立金町中学校へ[2][4]、高校もバレーボール推薦で修徳高校に進学[2]。チームで中・高9年間キャプテンを務め、関東大会で2位になった他、全国大会と東京新聞杯で優勝を経験[5]。この時に涙を流す平野の姿がアップでテレビに映ったことがある[6]。「今芸人としてやっていく上で大切な精神力が、厳しい練習環境で揉まれていくうちに培われた」とも言う[7]。, 子供の頃から目立ちたがりで独りよがりな性格であった。『天才・たけしの元気が出るテレビ! ?〜』(5月13日放送予定)のロケで訪れていた宮崎県で撮影中に尾てい骨を骨折し全治1か月と診断される[28]。テレビ朝日は5月29日の定例社長会見において、「安全の配慮が十分でなかった」として陳謝した[29]。, 2019年5月7日、トレードマークだった長い髪をバッサリ切った姿をインスタグラムに投稿[30]。, 趣味は絵画、スポーツ、格闘ゲーム[32]。特技はバレーボール、物真似、ダンス(1980年代のダンス、マイケル・ジャクソンダンス)[32][33]、本田美奈子の『1986年のマリリン』のライブバージョンを完全コピーすること[34]物真似はデヴィ夫人、マイケル・ジャクソン[35]、ベラ(「妖怪人間ベム」の登場人物)などがレパートリーにある[32]。Superflyのヴォーカル(越智志帆)に似ていると言われたことで「スーパーノンフライ」というキャラクターや[9]、女スナイパー、女子ボウラーのキャラをやっていたこともあった[13]。, 元バレーボール選手の経歴を買われて日本代表が出場する国際大会・2017年ワールドグランドチャンピオンズカップ(日本テレビ)の応援サポーターに任命され、その中継の際には自ら試合中のプレーを解説・指摘することもあった[36]。, 好きな俳優は舘ひろし、好きな野球選手はランディ・バース、ウォーレン・クロマティ[37]。他、好きなスポーツ選手はジャンボ尾崎[35]。, 父親はかつて不動産関係の仕事をしており、現在はカラオケ居酒屋を経営している[2]。バブル時代に小学生だった平野自身から見て「バブリーな人だった」とのこと[35]。ちなみに、母は居酒屋の隣でたこ焼き店を経営[2]。, 自身も小学生の時にファンレターを書いて送った経験があったことから、寄せられたファンレターには全て、自筆で返事を書いて返送している[38]。, 衣装は1980年代のバブル時代に流行していた大きめの肩パッド付きスーツ、髪型はロングソバージュ(自分で三つ編みした髪をほどいてソバージュにしている[3][10])、メイクは直線的で太い眉と強い色味の口紅、という出で立ち[3]。1985年に発売されたポータブルタイプの携帯電話「ショルダーホン」[3](ダイソーで買ったという材料で手作りしたもの[35])を提げて登場する。このキャラが生まれたのは2013年の年末頃だった[8]。バブルネタの前は、髪の毛を前後左右に振り乱しながら、バブル時代のあるあるネタを繰り出したり、バイクヘルメットを使って「男の落とし方」を披露したりするなどのネタを演じていた(テレビ初出演の際に披露したものがこのヘルメットをかぶってのネタだったとのこと。本人曰く「首がもげそうなネタ」[39])が[7]、ネタを観ていた人から「古い、バブル時代の“かほり”がする」と言われたことと、父が不動産関係の仕事をしていた(平野本人曰く“土地転がし”)ことから、バブルって何だろうと思い始めたことからバブルキャラを始めたという[40]。このネタを始めたきっかけは、バイクヘルメットを使ったネタを事務所の先輩のふかわりょうに見せた時に、ふかわに「方向性は合っているから、このキャラクターに真摯に向き合おう」との勧めの助言と後押しを受けたことだった[41]。ふかわには「キャラの精神状態が面白さを左右する」との助言も受けている[8]。, ネタを作るに当たっては、バブル時代当時平野本人はまだ小学生だったという世代的な事情から、バブル時代関連の本と自身のわずかな記憶を頼りに[3][11]、『あぶない刑事』や柴門ふみの作品、ホイチョイ・プロダクションズの作品、1980年代の曲の歌詞などを参考にしている[40]。「OK、バブリー!」「ぶっとびー!」「おったまげ!」(ショルダーホンの受話器を取って)「しもしも〜?」などの決め台詞[35][8]、「ワンレン・ボディコン・舘ひろし」などの定番の台詞がある[40]。また、五十音の一文字を言われたらバブル時代らしい言葉で返すという「OK50音バブリー!」と称したネタもあり[35]、このネタは自分のブログの中でも頻繁に披露している。他に、五十音の一文字を言われたら、デヴィ夫人が言いそうな言葉で返すというネタ、「バブリーしりとり」(DVD『アンタッチャブル柴田の「ワロタwwww」~超絶おもしろいのに全く知られてない芸人たち~』収録[42])などのネタがある。風の谷のナウシカの音楽「ナウシカ・レクイエム」と掛け合わせた「ランランララ、ランディ・バース」というネタは、今の夫との会話の中から出来た[43]。「バブル時代を再現するというわけではなく、あの時代をいじりたいので、それからちょっとずれてても、自分が面白いと思ったことを優先してネタを作っている。バブルを直に体験していたらこのネタは出来なかった」という[8][4]。, バブルネタで出演する時、荻野目洋子の曲「ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)」を出囃子(登場曲)にして登場することがある[44]。平野本人も、この曲が好きという所がある[40]。, 当初は母のバブル時代の衣装を着ていたが、その後、衣装や携帯電話などの小道具はすべて手作りのものを使うようになった[2]。, EXO カイ、お笑い芸人・平野ノラのモノマネを朝の情報番組でキュートに披露?平野ノラも感激ツイート!, http://www.sanspo.com/geino/news/20180427/geo18042715310025-n1.html, https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/29/kiji/20180529s00041000202000c.html, https://www.j-cast.com/2017/09/14308482.html, ミクシィ、『モンスターストライク』×「映画ドラえもん のび太の宝島」コラボ開催が決定! HIKAKINさんや平野ノラさんが登場するTVCMも順次放送開始, 平野ノラ“人生初”下着モデル、10日公開ワコール新WEB動画出演 - スポニチ Sponichi Annex 芸能, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=平野ノラ&oldid=80277259, 「ザ・トーナメント」(2014年12月16日) - 『ものまねショートSHOW』出演、「50音のうちのどれを言われてもバブルのような言葉で返す. Copyright© Gurunavi, Inc. All rights reserved. border-bottom: 3px solid #b2b2b2; line-height: 30px; .ig-b-:hover { background-position: 0 -60px; } .ig-b-:active { background-position: 0 -120px; } feat.バブリー美奈子」でシングルデビューした。プロデュースはふかわりょうが担当している[25]。, 2016年7月、自分が出演した番組がたまたま6日連続放送となったことで、これがその後のメジャー感を印象させるきっかけとなったともされている。平野もこの現象を「ノラウィーク」と呼んでいる[8]。とんねるずのみなさんのおかげでしたのネタ披露コーナーであり合格者がほとんど出ないことで有名なお笑いイミグレーションでは、合格を意味する入国許可を平野にとんねるずが与え、話題となった[26]。, 2018年4月24日、テレビ朝日の番組『183村秘境旅〜こんな田舎がアルか否か! 錦 平野/ヒラノ (烏丸/和食(その他))の店舗情報は食べログでチェック!錦市場は京の台所!知る人ぞ知る名店☆ご家庭や職場で!オンラインショップをご利用ください。 【禁煙 / ネット予約可】口コミや評価、写真など、ユーザーによるリアルな情報が満載です! W杯のベンチから関係者が泣いているのが見えた…平野孝は波乱のサッカー人生をどう生き抜いたのか, スライスしたての新鮮なお肉はこんなに美味しいのか!三宮「肉のヤマキ商店」の焼肉丼とすき焼き丼は肉好きなら何度でも食べるべき, 熟成魚vs新鮮魚の食べ比べが旨い!コスパ抜群の三宮「鯛之鯛」は魚好きの極楽浄土かもしれない, 金盃の樽酒があまりに旨くて驚いた!全国の日本酒通が集まる三宮「金盃 森井本店」は酒も肴も最高だ, 神戸・元町にこんな安ウマな立ち飲み屋が存在したとは!「ニューワールド」はコスパが凄すぎるので何度でも通いたい. .ig-b-48 { background-image: url(//badges.instagram.com/static/images/[email protected]); background-size: 60px 178px; } }. 現在、サッカー番組の司会者として、にこやかな笑顔と配慮のきいた言葉遣いを見せている平野孝は、年を取るに従って印象を変えた人物だった。, 最初に話をしたころはつっけんどんに思えていたが、数年経って話を聞くと丁寧に話をしてくれるようになり、今では鋭い意見の中にも気配りがきいている。, 1998年、日本中の熱狂の中ワールドカップに出場し、2002年では主力になるとみられていたのが、2000年に所属していた名古屋を退団すると、その後7つのチームを渡り歩き、最後はカナダで現役を終えたのだ。, 名古屋を退団したいきさつは、相手の意見もあるだろうからと一方的な話にしないため詳細を語らない。, 日本が初出場を果たしたフランスワールドカップの思い出を聞くとともに、心優しい人物がどうやってできあがったか聞いてみた。, 僕は日本のトッププレーヤーじゃないんですよ。ワールドカップには出ましたけど。だから今、こうやっていろいろサッカーのお仕事をさせていただいているのは本当にありがたいと思っています。現役を終わってメディアのお仕事をさせていただいて、たくさんのミステイクもありましたが、でもいい経験をさせていただいています。周りの人に恵まれました。ラッキーです。, 実はプロになったばかりの頃は、メディアの人と半年ぐらい話をしなかった時期がありました。1993年にプロリーグが始まった年に自分も名古屋に入ったのですが、選手の感覚はまだアマチュアで、限られた人、読売クラブの数人の人ぐらいしかプロとしての意識がなかったと思います。僕は高卒で入団して右も左も分からない中でプロになって、そのとき先輩から「メディアなんてろくなこと書かないから一切しゃべるな」って言われてたんです。それがプロだと思っていました。だから半年ぐらい極力話しをしないようにしていました。, するとあるときクラブの人に「その態度はおかしいだろう」と注意されたんです。たぶん、メディアの人がクラブの人に「平野おかしいぞ」って知らせてくれたんだと思います。プロってそういうものじゃないって、そこでわかりました。今では当たり前ですけど、メディアの向こうには応援してくれる人たちがいる。そのパイプ役の人たちに対してちゃんと真摯にに話さなければダメだと言われて、そこでやっとプロはどういうものかわかりました。知らなかったです。そこからはちゃんと接するようにしました。, 1997年から日本代表に入って、1998年フランスワールドカップ・アジア予選を戦いました。予選に関しては駆け足な感じというか、いろんなことがありすぎて。勝ったり負けたり、日本が本大会に行けるかどうかわからない緊張感の中で、いつも崖っぷちでやっていたので、あっという間の予選でした。, 毎日充実はしていましたが、いろんなことがありすぎて内容が濃かったですね。日本中から注目されましたし、新聞でも常に取り上げられて。叩かれるのはまぁ当然というか、そこはあんまり気にしていなかったんですよ。それよりワールドカップに行けるかどうか、ギリギリでしたから、それが気になって。, 自分は予選に出られないことが多くて、どちらかというとサポートに回ることが多かったですね。先輩方が必死に戦っているところを、自分が少しでも力になれればと一緒に努力するという感じでした。マレーシアのジョホールバルでアジア第3代表決定戦が行われたときもベンチに入れなかったんですよ。だからスタンドから見てましたけど、最後は純粋にうれしかったですね。ようやく本大会に向けてのスタート、ここからサバイバルが始まるなって。そんな感じで見ていました。, アジア予選は終わったけど、今度は本大会に行けるかどうかのサバイバルが始まった。僕は無我夢中というか、やれることやっていくしかない。それしかわからないんです。たぶん周りの選手たちもそういうサバイバルを初めて経験していて、何をどうするのかわかっていなかったかもしれません。, 憶えているのは、当時試合があると新聞に出場選手の評価が出るんですよ。「◎」「○」「△」って。記号の意味はワールドカップ本大会のメンバーに残るかどうかで、僕はいつも「△」でした。, でも、そんなのまったく気にならなかったですよ。そうやって気にかけてもらえると思って、緊張感はあったけど、楽しんでやっていましたけどね……やっぱり緊張感はありました。ピッチの上ではピリピリしてました。だけど一歩グランドから離れると、みんなでちゃんと話はしてましたよ。, 誰が選ばれて選ばれないかと、レギュラーの人たちは大丈夫っていう気持ちがあったかもしれないけど、僕たちはそんなこと一言も口にしない。したところで選ばれることもないし、決められることでもない。自分で決められないことを考えても仕方がないという気持ちです。自分がやれることやって、選ばれなければそれが自分の実力だって。僕は当落線上にいましたし、他にも4、5人はそういう感じだったと思います。その線上の人たちはある意味割り切って全力でやってました。, それでも日本のサッカー界を背負っているという気もありました。初出場の盛り上がりもありましたからね。ただ、選手も監督、コーチ、メディアの方々、サポーターの人たちにとっても初めてだったから、戸惑いがみんなに合ったと思います。何をどうすればいいかわからないけど、興奮してる感じで。, ワールドカップ直前にスイス合宿がありました。そこで3人落とされるという、厳しい選考方法でした。スイスに行った時点では、自分のプレーの役割はわかっていましたけど、その役割が本戦で必要とされるかどうか誰にもわからない。いろんな考え方がある中で、こういう戦いならこういうパーツが必要だということを、どう岡田武史監督が考えるか、僕たちはギリギリまでわかりませんでした。, スイスで現地の社会人チームと練習試合があったんです。その試合で、僕とゴンさん(中山雅史)だけが前半で交代させられたんですよ。45分間だけしかプレーがさせてもらえない。その時点で「オレ、どうなのかなぁっ」て不安でした。しかもゴンさんは当確してる人だから。ただ自分のパフォーマンスは悪くなかったと思ってたんです。, ベンチで2人だけ座っていると、ゴンさんが「なんでオレたち前半で交代なんだろうね」と話しかけてきたんです。「いや、ゴンさんは問題ないでしょうけど、オレ、そんなに悪くなかったと思ったんですけど……。わかんないッス」っていう会話をしていました。結果的に、残れたんですけど、たぶんラッキーではありました。, いざフランスで、なんとか出場することができました。初戦のアルゼンチン戦では84分、相馬直樹選手に代わってピッチに立ち、2戦目のクロアチア戦では出番がなかったものの、3戦目のジャマイカ戦では59分、城彰二選手に代わって出場しました。, アルゼンチン戦のウォーミングアップ中は、結構緊張感ありましたね。ちょっと独特な雰囲気でした。異国の地で、他の試合はいろいろな人種のサポーターが入り交じってますけど、唯一日本戦だけはほとんど日本人で、自分たちがやりやすい雰囲気は作ってもらったと思います。けれど、今までの公式戦とは違いましたよ。, フランスの地で、対戦相手がアルゼンチンというシチュエーションで、警備員がたくさんいる物々し雰囲気。緊張感がピッチ入る前はありました。0-1で負けていて、自分がゴール裏でウォーミングアップしてるときに、サポーターの人たちパッと見たら、みんな泣いてるんですよ。みんなワールドカップで日本人がプレーしていることに感極まってて。そこから交代出場のためにベンチに呼ばれて行ったら関係者も泣いてたんです。そこで自分の置かれている状況とか責任とか、そこですごく感じました。, ただ、ピッチに入った瞬間は緊張とかなかったですね。いつもと同じでした。対戦相手がアルゼンチンという強豪ということぐらいが違っていると思いました。だから変な緊張はなかったですね。それに残り時間は少なかったですし。, 自分のマークはハビエル・サネッティでした。同じ歳でしたけど、彼は百戦錬磨。大舞台を何度も経験してた。そして僕は力の差を感じました。上には上がいるんだって。本当はもっとやれるんじゃないかって思ってもいたんです。半信半疑でしたけど。, ところが実際にプレーしてみるとわかりました。あ、全然違うなって。サネッティは「岩」でした。ファーストコンタクトしたときにとんでもないと思いましたからね。ホントに同じ歳かよって。相当な勢いで僕は当たった記憶があるんですけどね。まったく動かないんです。ボディコンタクトしてもびくともしない。僕もアジアではフィジカルが弱いほうじゃなかったんですけど、世界との差はありました。, 身体的な違いだけじゃないんですよ。雰囲気とかね、立ち振る舞いとか、威圧感があるんですよ。間合いも相手の間合いになってしまって、どうしても自分の間合いでプレーできない。いろんなことを考え過ぎちゃったんでしょうね。今思うと。そのときは必死ですから。そしてそのままタイムアップでした。, ジャマイカ戦はより点を取りに行くという意識でやってました。試合前にもう決勝トーナメント進出の可能性はないとわかっていましたが、ジャマイカ戦では絶対にこのままじゃ帰られないという気持ちが選手の中であったと思います。消化試合ではない、勝ち点だろうが、勝利だろうが、少しでも爪痕を残したいという思いでした。結果的に3連敗ということにはなりましたけど、いい経験をさせてもらいましたね。, ワールドカップ前後では、サッカーに対する考え方が変わりました。実際の公式戦で、最高の舞台で、明らかにレベルの違う選手たちと一戦を交えたことで、サッカーに対する追求心や、探究心が大きく変わったと思います。自分はやっぱり甘い。自分の考え方だと甘いって思い知らされましたから。, もっとやらなければダメだ、とにかく練習しなければいけない、これじゃまだまだ足らない。そんなことをずっと考えるようになりました。ワールドカップ前以上にサッカーに対してもっと向き合わないといけないと考えてましたね。上の世界を見た、経験したからだと思います。テレビで見ているのと、実際の舞台で戦ってみるとまったく違っていましたよ。, 1998年のワールドカップが終わって、2002年こそもっと活躍できるようになりたいという思いはありました。だけど、その4年間はいろんなことがありました。チームを渡り歩いたりして、2002年は勝負の年だと思って神戸でプレーしたのですが、チームの状態があまりよくなくて残留争いしていました。そこで2002年のワールドカップ出場は夢と消えましたね。2002年に出られなかったのは反省しかないです。自分がそこに関われなかったというのは、うーん、何だったんでしょうね。甘かったんですかね。どうなんですかね……。, もっとサッカーに集中できる環境を追求していくとか、そういうことにフォーカスすることもが大事だったんでしょう。一概に一つの理由じゃないと思います。でも、2002年のワールドカップ前のアプローチとしてはよくなかったですね。何か、どこかでミスが起きたかと思いますし、そこは残念でしかないですね。, 2000年、シーズン途中で名古屋をクビになりました。それについてはいろいろありますが、とにかく自分はサッカーができなくなった。みんなと一緒には練習させてもらえなくて、1カ月ぐらい1人でトレーニングしていたんです。自分が好きな、これまでずっとやってきたサッカーを取り上げられた期間でした。そこはきつかったですね。ただ、今にして思えばあれがあったからこそ、今の自分ができたという気がしています。, ずっと名古屋にいたとしたらそれも一つのサッカー人生だったと思いますし、そうだったら最高だったのかもしれない。けれど今思えば、いろんなチームを経験できたことは自分にとって財産になりました。正直な気持ちでよかったと思っています。, 一番の財産はいろんな選手、いろんなサッカー関係者と出会えたことです。それだけでも相当なメリットになりました。名古屋だけだったら名古屋に関わる人だけしか人間関係を築けなかったと思いますが、移籍した京都から始まって、磐田、神戸、東京V、横浜FM、大宮、最後はカナダのバンクーバーですから。全部で8チームなんですけど、その間、人間関係やコミュニティが爆発的に広がりました。, それは今でも何よりも財産です。今の仕事にも多少つながっているんですよ。結果的にはよかったと思ってます。それに各地でいろいろおいしいものを食べることもできました。, 僕は好き嫌いがないんですよ。それにバンクーバーでプレーしていたときは、市内に日本食レストランがだいたい3000軒あると言われていました。もっともその中には中国や韓国の人が経営してる和食レストランもありましたけど。食事に関してはそんなに困りませんでした。遠征に行ったときはアメリカンでハンバーガーとポテトで、でも全然大丈夫でした。, 選手によってはカロリーとか気にしている選手もいましたけど、僕は何でも食べられるぶん、体が要求しているものを食べるというのが大切だと思っていて、そういう意味では偏りがなかったですね。今日は野菜が食べたいとか、魚が食べたいとか、いろいろその日によって違いましたから、それがよかったんだと思います。タンパク質と炭水化物の割合なんて意識したことはありません(笑)。, そうやって現役時代にいろいろ行った中で、特に印象に残っているのは、神戸時代に通っていた、「味加味(みかみ)」っていう新神戸の駅のすぐ近くの定食屋さんですね。1人で暮らしていたんで「僕の台所」と呼んで、毎日通い詰めてました。メニューの中で魚、肉って自分の欲するものをバランスよく食べてました。今でも店の名前やいろんなことを憶えていますよ。懐かしいなぁ。, ……もし名古屋のああいうことがなかったら、名古屋でずっと一生、現役生活を続けたかというと、そうも思ってないんですよ。やっぱり名古屋って居心地がいいんです。環境も抜群ですし、待遇もいい。みんなたぶん名古屋に行った選手はみんなわかると思います。ああいう環境でプレーしたいとみんな思うでしょう。, だけど居心地がいいゆえに、そこに依存しすぎる可能性もあると思うんです。それがサッカーに対してマイナスに働くこともゼロじゃないと思うんですよ。だから自分がサッカーを追求したいと願い、うまくなりたいという思いを持っていたら、名古屋の居心地の良さは怖かったかもしれませんね。甘えちゃうかもしれない。そういうことを怖れて名古屋から移籍していったかもしれませんね。, 現役の時も「甘えちゃいけない」という気持ちは持っていました。それに聞く耳だけは持っていたので、周りで厳しく言ってくれる人もたくさんいたと思います。プレーの質が悪いと電話がかかってきて、「アレ、どうかと思うよ」って言われることもありました。, 嫌なことを言うってパワーがいるので、話してきてくれる人も辛いんですよね。でもそれでもあえて言ってくれる。それを聞いておかなければっていけないだろうって。だから、そこは聞くようにしていました。キツイですけど(笑)。, 聞く耳を持てたのは、高校の監督とか、学生時代の監督とかコーチとか、そこが厳しかったからだと思います。メディアに嫌なこと書かれると、疎遠になる選手はいると思うんですけど、僕は「ダメならダメって書いてくれ」って言ってたんですよ。なぜダメだったのかって自分ではわからないかもしれないし、わからないからミスをする。そこをあえて書いてくれる人はありがたかったですね。本当の自分を見るためには、周りからいろいろな角度で見てもらったほうがいいんですから。, 今でもその若手選手にたくさん接しますけど、言いやすい人、聞く耳持った選手は聞く体勢を持ってる。逆に言われにくい選手はかわいそうだと思ってます。そんなパワー使いたくないって思われる選手は損していると思うんですよ。, サッカーは技術・体力と人間性の両方がないと、プロとしては大成しません。個性は大事にしなければいけないけど、自分勝手な、自分本位というのとは違います。わがままを個性と勘違いしているヤツはいますよね。, 高校の恩師だったり、プロになったときに初めに指導してくれた人だったり、プロというものを教えれくれた人だったり、そういう人の言葉に、ハッと気付かされることがありました。そういう厳しいことを僕のために言ってくれた人には、今でも感謝しか無いです。そのおかげで18年間プロとしてやり続けることができたと思います。自分1人だけだったらきっと18年もやってないでしょうね。どっかできっと踏み外したでしょう。, だからそこはありがたかったですけどね。周りにそういう人たちがいてくれた。そういう意味ではラッキーでした。僕のサッカー人生は、ラッキーだったと思います。, 清水市立商業高校を経て1993年、名古屋グランパスエイトに入団。1年目から出場機会をつかみ、1997年には日本代表に選ばれる。1998年にはフランスワールドカップに出場。その後、2000年に名古屋を退団後は7つのチームを渡り歩き、2010年に引退。, 佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。, まいど憶良(おくら)です。 切りたて新鮮な焼肉丼がお安く食べられるお店があると聞き、神戸市は三宮にやって来ました。 センタープラザの案内所横のエスカレーターを下って右手に見えるのは長田本庄軒さん。 こ…, まいど憶良(おくら)です。 関西でも指折りの、めちゃくちゃ旨い鶏皮が食べられる店があると聞き、神戸は元町にやって来ました。 元町駅からすぐ近く。 「旨いとり皮串が喰らえる店」っていううたい文句がいいで…, まいど憶良(おくら)です。 熟成肉ならぬ、熟成魚が食べられるお店があると聞き、兵庫県は神戸市にやって来ました。 目指すは三宮駅の「鯛之鯛」というお店です。 阪急三宮駅からも5分程度で行けますが、地下鉄…, まいど憶良(おくら)です。 今では滅多とお目にかかれない、金盃の樽酒が呑める名店があると聞き、神戸市は三宮にやって来ました。 阪急三宮駅を出て西へ3分。生田ロードのこのアーチを右手に見て、 今回は三宮…, まいど憶良(おくら)です。 神戸・元町の安ウマな立ち飲み屋「ニューワールド」 神戸に来るたび、何度でも行きたくなる居酒屋さんがあると聞き、神戸は元町にやって来ました。 今回紹介するのは「ニューワールド…, .hatena-module-title {